日野神明キリスト教会

「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」

                       ローマ4:3

本文へジャンプ

立川バプテスト教会日野神明伝道所

 

私たちが正しい人間であると評価される材料は、この世にはどこにも見いだすことは出来ません。「義人はいない。ひとりもいない。悟りある人はいない。神を求める人はいない」(3:10-11)とパウロが宣言するここに、私たちは大切なものを聞き取らせていただくのです。
私たちがしっかりと聞きとらねばならない大切なこと、どのようにして私たちは神に義とされるのか。滅びることなく、永遠のいのちにいれていただくことが出来るか、と言うことです。そのつてとなるべきものは私たちには何一つない。しかし私たちはそれでも、救いに至る何らかの道があると考えています。どこかに道があるに違いないと探し求めるのです。そこで必要なのは、私たちはいかに課題としっかり向きあっているかです。パウロがこの手紙の冒頭でそのことに触れるということは、問題の基本はここにあるということです。あなたは私をだれというか。
「肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たというべきでしょうか。彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません」(4:1-2)。ユダヤ人にとって、信仰の父であるアブラハムは大きな誇りでした。しかしパウロは、アブラハムが義とされたのは、彼の万民にすぐれた善行によって義とされたのではない。かえってその行いには多くの欠陥がありました。それでも神はそれらをすべて大目にみて、ただ彼の真実の信仰を認められたというのです。
覚えておいでですか。イエスと一緒に十字架につけられた二人の罪人がいました。その一人が「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました(ルカ23:42-43)。彼に罪の赦しの何のよきものも見いだされてはいなません。しかしイエスは、彼に楽園の約束をされたことを私たちはしっかりと聞かせていただきます。何が御国に入れられる条件だと、私たちは聞かせていただくのでしょうか。
パウロは「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです(4:13)と告げます。パウロはダビデの詩(4:7-8)を引用しながら「行いなくして神に義と認められる幸い」強調しました。ヨハネは「そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめる」(ヨハネ一1:7)と言います。これが「福音」です。ここにあってもパウロは、私たちに、あなたは誰ですか、と問うてくるのです。救われるにふさわしい何ものも持ってはいない。しかし、私たちは神に義とされ、救いの喜びに与らせていただくことが出来る。それはイエス・キリストを主と信じる信仰によってです。

2018/7/15