日野神明キリスト教会
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立川バプテスト教会日野神明伝道所

あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。                                  (ヨハネ14:15)

 私たちは、このイエスの願いにしっかりと応えることができているとは言いがたい毎日を過ごしています。それでもこのみ言葉は、私たちがしっかりと守るべき主イエスの掟です。
 このみ言葉は、過越の食事の後で、最も親しい友と弟子たちへ残されたイエスの最後の教えの、最も中心的なところへと私たちを導いてくれます。主イエスは弟子たちにご自身の十字架の死と復活についての予告をされましたが、弟子たちはそのイエスの言葉を、理解することはできませんでした。不安にかられた弟子たちの思いは、トマスやピリポが発した質問の中に現れています。その彼らに主は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私を信じなさい」(ヨハネ14:1)と言われるのでした。
 主イエスを信じる信仰をほかにして、主の掟に生きる道はありません。イエスは「わたしを信じる者は、わたしの行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」(ヨハネ14:11)と言われました。私はいつも主イエスはどのように生きてお出でになったのだろうかと思うことがあります。そのとき私の心の内に浮かんでくるのは「聖フランシスコの平和の祈り」です。
 ある婦人が「恍惚の人」となった姑の世話を、たいへん犠牲を払ってしていましたが、姑から「ありがとう」の言葉の一つもかけてもらえず、疲れ切って牧師のところに相談に来ました。その牧師は「奥さん、人間には本来愛なんてないんですよ」と言いました。それを聞いて「そうだったんだ。愛がないんだから愛されなくてもいいんだ。愛がないんだから、あるように見てもらわなくてもいいんだ。愛がないんだから、神さまを信じていればそれでいいんだ」と。こう気づいたら気が楽になって、元気よく姑がいる家に帰って行きました。後で彼女は牧師に「そう思いましたらね、一度も言ったことのないお母さんが、手を合わせて『ありがとう』と礼を言ってくれました」と、とてもうれしそうに笑ったそうです。
 聖フランシスコの平和の祈りの一節は「慰められるよりは慰めることを/理解されるよりは理解することを/愛されるよりは愛することを、わたしがもとめますように/わたしたちは、与えるから受け、ゆるすからゆるされ/自分を捨てて死に、永遠のいのちをいただくのですから。」です。私たちはみ言葉に生きると言うことを、少し取り違えて考えてはいませんか。

2017/5/21