日野神明キリスト教会

だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。

                       ローマ2:1

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立川バプテスト教会日野神明伝道所

 

パウロが心から願ったローマ訪問は、神の福音を造られたものすべてに伝えたいとの願いでした。パウロが確信をもって「福音を恥としない」という福音を、すべての造られたものへ伝えたいとの願い、その理由をこのローマの信徒への手紙で書きました。世界中の聖書学者はそれをしっかりと聞き取って、神さまと共に歩む者である感謝を表してきました。そのパウロの核心で、その初めに確認しなければならないこと、それは私が自分を誰だと理解しているかということです。そのことが確かなものとされない以上、「福音」を理解することはできない。「福音」を私は十字架のキリストだと語ってきました。イエスは私たちの罪の贖いのために十字架にかかられました。私たちはそのイエスの裂かれた肉と流された血潮によって、滅びるべき私がいのちへと移していただきました。こんなうれしいニュースはどこにもありません。 Good News まさしく「福音」です。しかし天の父なる神は御独り子イエスを十字架にかけられたのです。私たちには「福音」であっても、神には最上の痛みです。私たちはそれをどれほどしいかり受け止めることが出来ているか。
 パウロはそのことを問うことから、私たちの信仰へ問いかけてきます。まず異邦人に問います。世界が造られたときから、神は知られている、知ることができている。彼らには弁解の余地はない。(1:20-21)と書きました。私は世界中、この日本人私たちも、この生かされている世界の中でしっかり神の息吹を感じている。ただクリスチャンである私たちが感じている仕方とは違いますが。私たちは自然の中にその息吹を感じて、自然の大きな動きを神としてあがめてきました。しかしそれは偶像礼拝です。そこでどうして真の神を感じ受け止めることが出来なかったか、とパウロは問うのです。それは、「自分では知恵があると吹聴しながら愚かに」(1:22-23)なっているからだと言うのです。神を知りながら驕り、神を知らない、知らされなかったとうそぶいていたことを受け止めなければなりません。そこに救いはありません。その私たちの救いのために、イエス・キリストは十字架にかかられました。
 異邦人の罪以上に、ユダヤ人の罪は大きいとパウロは言う。「あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになる。」(2:1)との言う。あなたたちは律法に忠実であると言いながら、実はそれを全く守ることが出来ていない自分を知っていますか(2:17-23)。私はクリスチャンとして、このパウロの指摘をしっかりと受け止めさせていただくのです。パウロの「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいな。」(3:10-11)。との言葉を悲しく心に留めさせていただくのでした。今は私たちにはその「福音」が届けられている。あなたは自分を知っていますか。

2018/7/1