日野神明キリスト教会

おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。(フィリピ 2:8

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立川バプテスト教会日野神明伝道所

 

 トマス・ア・ケンピスの「キリストに倣いて」をご存じですか。岩波文庫にも収録されていますので是非読んでみて下さい。永遠の命に至る道を尋ねられてイエスが何と答えられたか。どのように掟に忠実であっても、それを極めることは出来ない。イエスは「あなたに欠けたものが一つある」と言われました(マルコ10:17-25)。
 私たちはどのようにこのイエスの言葉を聞かせていただいてきましたか。私はいつも、イエスがいかに生きておいでになったか、御旨を大切にしておいでになったかを思い起こさせていただいています。イエスは神の言です。イエスご自身に神ご自身の思いをしっかりと聞かせていただいています。そのお方がどのように生きておいでになったか。カルバリ山の十字架を目当てに生きておいでになった、と言うととても変に聞こえますが、それがイエスご自身の言葉だと私は聞かせていただくのです。そのお方に私たちは倣うのです。
 私は、創造の初めから今日まで、変わることなく私を愛し続けておいでの神さまを、しっかりと受け止めさせていただいています。本当に神さまは愛ですか、と問いたくなることしばしばで、幾たび神さまに問い続けてきたことか分かりません。それでも私は、神さまを信じ続けさせていただいています。皆さんもそうでしょう。
 預言者イザヤはこう言いました。「『おことばですが神様、私のこれまでの仕事はみな失敗に終わりました。 すっかり力を使い果たしましたが、何の手ごたえもありません。どうぞ、おこころのままに報いてください。』ところが、神様の国民イスラエルを立ち返らせる使者として、私を母の胎内で形づくり、この仕事を成し遂げる力を与え、私を特別扱いしてくださった神様は、さらに告げたのです。『おまえはイスラエルをわたしに立ち返らせる以上のことをする。 国々の光となって、外国にまでわたしの救いをもたらす。』」(イザヤ49:4-6・リビング訳)と。弓折れ矢尽きたと神さまに言うイザヤに、神さまはこのように言われました。
 これが私たちの主です。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6-8)とパウロは告げます。私たちがどこまで神さまに愛されているか、計り知ることが出来ないその愛の中に生かされていることを知るとき、主キリストに倣って生きる光栄を感謝するばかりです。ただキリストに倣って生きるのみです。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」(ヨハネ一3:16)。

 



2018/2/25