日野神明キリスト教会

主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。(箴言 1:7

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立川バプテスト教会日野神明伝道所

 ソロモンの箴言には、私たちの人生訓ともいうべき多くの言葉を聞かせていただきます。それは単なる人生訓ではありませんで、その根底に横たわっているものを抜きにして読むとき、その意義は半減してしまいます。詩篇が、私たちの祈りと献身の人生のために書かれたものであるとするなら、箴言は日常生活を送るための現実の提言を与えてくれるものです。
 箴言は感銘を与えるような人生を送るための、現実的な提言を与えてくれます。確かに興味深いことには、箴言の提言は断片的なものが集められたものという感じがしますが、しかしそれは経験に裏付けされた、霊的に深い見識をもって語られたものであることを気づかされるのです。
 箴言は、基本的な霊的道徳的信仰について論じるのではなく、それらはすでに持っているものと想定しています。そこでは神の性質や働き、祝福に焦点を当てていて、どのようにして神と近しい関係の中で生きていくことができるか、を教えてくれます。
 「主を畏れることは、知恵のはじめである」との言葉は、箴言全体を貫くもので、畏れるとは、神を戦々恐々として恐れるものではなく、かしこみ畏れる、畏敬することです。「主」(ヤハウェ)とは、もともと存在の根源を意味する言葉に由来する神名(出エジプト3:4)であって、契約の主でいましたもう神です。この神の支えなくしては、この世界に存在することはできません。だから、主を畏れることは、私たち人間が正しい知識を得ることの出発点なのです。
 神がすべてのものを造り、私たちはその中におかれました。すべてのものを正しく理解するためには、神を敬い、信じ、従わなければなりません。今日の、情報があふれかえる時代の中で、ほんとうに大事なものを見いだすことは、ほんとうに困難です。あなたはどのようにしてそれを見分けられますか。真の知恵は神との正しい関係から始まるのです。ほんとうの知恵者というのは、神がこの世界の主であることを知り、その中ですべてのものを正しく位置づけている人のことです。だから神を認めず、神を畏れない者は愚か者と言うほかありません。そして多くの人たちは、自分がそのような意味で愚か者であるということすら知らずにいるのです。それでは健全な人生を送ることは適いません。箴言に聞く人たちには無用であったかも知れませんが、今日の私たちは、まず、しっかりと主である神への信仰の確認が必要であるのかも知れません。主イエス・キリストに対する明確な信仰告白を通して私たちは、真の知恵者として、毎日を喜びと感謝で過ごさせていただくのです。

 



2018/1/21