日野神明キリスト教会
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立川バプテスト教会日野神明伝道所

しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。

                    ローマ5:15

 「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」私たちはしっかりと聞かせていただきます。しっかりと受け止めさせていただき、私たちが自分自身を見つめさせていただくところから、自分自身の歩みを始めさせていただくのです。アダムの出来事はすべての始めです。
 中国の独立伝道者ジョン・サン師が伝道旅行したとき、なぜか救われる人々が起こされませんでした。彼はこのわけを色々考えて、ひとつの結論に達しました。「今まで私は人々が神について、聞きたいと思っているだろうことについて語ってきた。だが、これからは人々が霊的に益を受けることを語ろう」と。それからの彼は、神ご自身のことを語ると同時に、人間を支配している罪の力について語りだしました。「義人なし、一人だになし。」私たちがしっかりと聞き取らせていただかねばならない大事なことだと思っています。
 最近、信仰告白について学ぶ機会がりましありました。教会の信仰告白をご存知ですか。日本バプテスト連盟が1979年に、時代を見据えて新しい信仰宣言を採択したとき、連盟総会で議論が沸騰したのは、信仰宣言の最初の事項は「聖書の権威」か「まことの神」かということでした。今でもこの議論が私の頭な中を巡っています。私にとってはこれは、いい加減に取り扱うことが出来ない大事なことです。
 
私にとってキリスト信仰を語らせていただく中で、「神」「罪」「救い」は大切なパターンなのです。それはまた、「神」「人間」「キリスト」ということでもあります。このような中にあって、この私は何者、との問いと向かい合わさせていただいてきました。そこでいただいた答えは、何者であるにしろ神は、この私をしっかりと受け止めていてくださるということです。イエスの誕生を通して神が私たちに示された愛の行為は、ほかのどのようなものをもってしても表しうるものはありません。 
 最初の人アダムの、主なる神との誤った向きあいが、私たちにもたらした裁きの大きさをしっかり受け止めさせていただきながら、それを越えて私たちを愛し抜いて下さる神を、私たちを知っています。パウロは「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」(5:15)と言います。
 そうです。「主の名を呼ぶ者は、みな救われる」(使徒2:21)です。この「福音」をしっかりと受け止め、恵みにあふれさせていただきます。

2018/7/29