日野神明キリスト教会

正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない」

                       (ローマ3:10-11)

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立川バプテスト教会日野神明伝道所

 


正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない」(ローマ3:10-11)私たちがしっかりと聞かねばならない言葉です。それ故にパウロはしっかりと「福音」を語り続けなければなりませんでした。
滅びるべき私たちが、いのちに生きるため、神は御子・独り子なるイエスを十字架につけられました。そこまでして神は私たちを生きるものとされたいのか。それは、神が私たちをどこまでも愛し抜いておいでだからです。私たちはそのことをどこまで受け止めているのだろうか。パウロはローマのクリスチャンたちに語ります。
この手紙の指摘は、ユダヤ人を対象としたものでも、異邦人を対象としたものでもない。というよりそのような区別は問題ではない。神さまには、罪についても救いについても、すべてのものが対象であったということです。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてを与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」(ローマ3:21)とパウロは言います。今日の私がしっかりと聞き取らせていただかねばならない課題なのです。
本当に私たちは、この自分が何者であるかを知っているのでしょうか。自分は正しく生きていると、ほとんどが自負しています。しかし神は違うと言われる。パウロはそのことを私たちに告げます。私はしっかりとパウロが告げる言葉を聞き取ることができなければ、私たちはいのちへと生きることはできない。マルティン・ルターはこの三章を「ここに記されていることには注意せよ。これはこの書、いや全聖書の中心と見てよい、もっとも重要な部分である」と言っている。私たちはそこに何を見ているのでしょうか。
よほど道徳的な生活を営んでいるかに見える人も、その実、神の前においては五十歩、百歩の相違があるだけで、同じように罪人なのです。私たちは、みな罪人です。どれほど、身を削るほどの努力をしたところで何の助けになるものでもありません。救いは神から来るのです。
しっかり心に刻み付けるべき言葉です。「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(ローマ3:28)と言いました。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェソ2:8)とある通りです。本当の私たちが願う幸せがどこにあるか。それはイエス・キリストにあります。私は今日の世界中の人たちが、十字架のイエスをしっかり見つめることなしには、平和は訪れてはこないと言わせていただかねばなりません。それは神の恵みだからです。

2018/7/8