日野神明キリスト教会

食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。           (ヨハネ21:15)

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立川バプテスト教会日野神明伝道所

 

 

 私たちは「愛する」という言葉を、どの程度理解をして使っているでしょうか、というのは、ここでイエスがペトロに尋ねられた「わたしを愛しているか」と言われた言葉と、ペトロが「あなたを愛していることは」と答えた言葉が異なっているという問題があるからです。私たちが日本語で「愛する」という言葉、英語で be love と使う言葉が、イエスの時代用いられていたギリシャ語では、四つの異なった言葉で表されていました。当然のことながら、その意味するところもちがいますが、日本語ではそれらを、「愛」という一つの言葉で伝えられてきました。そうであるとするなら、私たちはイエスが「愛している」と言われる言葉で伝えられたイエスの思いを、どれほどしっかりと理解しているかが問題になります。そしてそれは、イエスが私たちのために十字架にかかって下さった意味をも理解できないと言うことが言えます。
 性愛を意味するエロース、親子の愛情を意味するストルゲー、友愛を意味するフィリア、そして神の愛を意味するアガペーという言葉がありました。アガペーが意味する愛は、本来は神の愛ではなく、むしろ師に対する尊敬の念という情感を表すものでしたが、新約聖書で、神の愛を表すのに、ほかの三つの言葉では表しきれず、アガペーを用いられたと考えられています。イエスが「アガペー」という言葉を用いられたその言葉が意味するところは、私は、イエスの十字架を通して示されたものにほかならないと理解しています。
パウロはコリント第一の手紙で、「信仰と希望と愛。このうちで最も大いなるものは、愛(アガペー)である」(13:13)と言いました。パウロがそう言うのは、アガペーは、人間の行為や思惟、理性や悟性の一切を超えたところで、神ご自身が働きかけておられること自体を受け止める、人間の応答の基礎となるものだからでした。
神の愛はヨハネ3の16でしっかりと私たちに告げられていることで、それ以上でもそれ以外でもありません。イエスはペテロにそれを求められたのです。けれどもペテロは、単に友情を表すフィリアという言葉で応答しました。残念というほかありませんが、それでは私はどうだろうか。イエスは「わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と言われましたが、イエスが用いられたこの言葉はアガペーです。私たちが「愛する」と口にするときは、この言葉をおいて他にはないということなのです。私たちが「愛する」と口にするとき、そこには、いのちを懸けた、私たちの行動があるということを忘れてはなりません。

2018/5/6