日野神明キリスト教会

わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。 ロマ6:8

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立川バプテスト教会日野神明伝道所

 

 

 

 ヨハネ福音書3章での、ニコデモとイエスさまとのこの会話は、イエスさまがなされた最初の論争ではないかと思っています。そこでイエスさまは「新たに生まれなければ」と言われましたそのとき私は、マルコ福音書が記した、イエスさまの宣教の第一声「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15) との言葉を思い起こさせられました。すべては私たちがしっかりと自分自身を知っているかということから始まるということです。私は何者なのか。救いからほど遠い罪にまみれた私です。この私が救われるのは、悔い改めて新しく生まれることです。キリストと共に死んで、キリスト共に復活する。キリスト・イエスによる福音とは、罪人である私をしっかりと見つめるところから始まるのではありませんか。私たちが心得るべき第一のことが罪の自覚です。ニコデモにはまだその自覚はありませんでしたが、イエスのうわさを聞く中で、どうしても確かめたいことがありましたからこそ、夜こっそりと人目を気にしてイエスを訪ねたのです。そこでイエスから「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われてしまいました。    
 私は、このイエスの言葉をしっかり見つめてくださいと言わせていただくのです。言葉を見つめるとはどのようなことかと問われるかもしれません。「初めに言があった。言は神であった」(ヨハネ1:1) とのヨハネの言葉を思い出してください。言葉を見つめるときに聞こえてくる言葉が必ずあるはずです。私はよくイエスの十字架が語る言葉を聞いてほしいと言わせていただいています。そこから聞こえてくる二つの言葉があります。あなたがこの私を十字架につけました。私はそのあなたを愛して十字架にかかりましたと。それこそが私たちがしっかり聞きたい十字架が語る言葉です。
 イエスは「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ」と言われました。ユダヤ民族はアブラハムの子孫として、神に特別に選ばれたものとしての自負に生きていましたが、ユダヤ民族に生まれることでも、律法に従うことでもなく、神の国に入るのは、聖霊によって生まれるものであるといわれる。本当に私たちは、私が何者であるかをしっかりと受け止めているのでしょうか。「はっきり言っておく」と言われるイエスの原文は「アーメン、アーメン」です。ニコデモはイエスからしっかりとまことの言葉を聞きました。パウロは私たちに「あなた方の救われたのは恵みによるのです」(エペソ2:5)と語りました。ただただ神さまからの賜物です。あなたは、今の自分に死ぬことなしには生きることはできません。

 



2018/4/22