日野神明キリスト教会

いかいに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。 (詩篇31:1

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立川バプテスト教会日野神明伝道所

 

 

キリストの復活の喜びにあふれている私たちは、再度、キリスト来臨の意味をご一緒に考えさせていただきます。 
 私は生かされている、という思いの大事さを最近、特に心に思させられることが多くあります。この世に生を受けた意味を考えるようなことは、普段のことではあまりないことでしょう。多くは、事に遭遇して、私はいったい誰、と初めて自分と向き合われた方は多いのかと思っています。それは私たちにとっては、しっかりそれを受けとめて、自分を向きあわねばならないこと、キリストはそのために来られたのです。
 イエスは三つの失われたもののお話をルカによる福音書でされました。私たちにとっては、しっかり心に残されているお話です。そこからイエスの何をお聞きになりましたか。失われたものを、どんなことをしてでもそれを探し出そうとする、主人公の思い、愛を私たちはしっかりと聞かせていただくのでした。しかし三番目のお話はそれだけではない、もう一つの大切なメッセージを私たちは聞かせていただくのです。それは放蕩息子のお話です。
 彼の帰国の動機は、自分を見つめたところから始まります。「彼は我に返って言った。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても。またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてくださいと。」そして。彼はそこをたち、父親のもとに行った。」(ルカ15:17-20)
 私は生きている中で、自分の居場所がどのようにしてあるのか、心得ていることがあるだろうか。この息子は幸福で幸せいっぱいの生活をしてきました。そのときには彼は、今自分が置かれているような状況の人たちのことについて、考える事すらなかったと思います。どん底に陥ったことについて彼は、人のせいに、社会のせいにしてきたことです。そのような中で彼は、本当に暖かった自分の家のことを思い浮かべることでした。私はこの息子のこの時の光景をしっかりと向け留めさせていただくことは、何物にも代えることできない大切なことだと教えていただくのです。神さまはその機会をしっかり、私たちに提供していてくださいます。そのためにキリストは十字架におかかりになったのです。

 



2018/4/8