「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」 (マタイ21:5

日野神明キリスト教会

 

 

 イエスがどのような思いで、最後の一週間を過ごすためにエルサレムにやって来られたのだろうか。何が起きるかイエスはご存知でした。イエスがなして来られたこと、なそうとしておられることを思うとき、私はしっかりイエスが歩んでこられた道を見つめさせていただかずにはおれません。
 イエスは、本当の大切なものを与えてくださいました。それがイエスのエルサレム入場の光景に映されています。それは預言の成就でもありましたが。イエスはこれから対峙する人たちと向きあう覚悟を、子ろばに乗って行かれました。軍馬ではなくろばに乗ってです。そこにはイエスの思いが、イエスがこれまで語り伝えてこられた思いが如実に表されています。それは神さまの私たちへの思いでもありました。
 そこに私は、神さまのはかり知ることができないほどの、慈しみを感じさせていただいています。確かにエルサレムの人々はイエスの来場を歓迎しました。人々はイエスに約束された救い主を期待して迎え入れました。けれどもイエスは何も,彼らが期待していたことをなしては下さいませんでした。バプテスマのヨハネが獄中からイエスのもとに弟子を送って「来たるべきお方は、あなたでしょうか。それとも、ほかのお方を待たねばなりませんか」と尋ねさせた言葉に現れています。イエスはこうお答えになりました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(マタイ11:2-6)と。
 神さまはイエスを私たちに贈ってくださいました。主イエスは、神さまの「言」です。私は、神さまが発せられる言葉として、イエスに聞かせていただいてきました。十字架につけろ、十字架につけろと叫んだ群衆は、確かに祭司長らに扇動されての一面もありますが、期待が実現されないいらだたしさもありました。神さまがイエスを私たちのもとに遣わされたのは、しっかりと神さまを知ってほしいとの思いからでした。私たちが大切にしなければならないこと,私たちが願い求めている真の平安は、イエスの生涯に語られています。イエスの十字架で語られています。イエスは徹底して仕える人として生きておいでになりました。そこに今日に生きる私たちへのメッセージがあるのです。子ろばに乗っておいでになったイエスを、しっかりと見つめさせていただかねばならなりません。どんな言葉が聞きこえますか。

 



2018/3/25

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立川バプテスト教会日野神明伝道所