日野神明キリスト教会

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。                (ガラテヤ2:20・新改訳) 

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立川バプテスト教会日野神明伝道所

「最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に有りて生くるなり」(文語訳)の聖句は、私の愛唱聖句の一つですが、それにとどまらないで私の生きる姿勢としていつも心に留めさせていただいています。私はキリスト・イエスを贖い主と信じて告白したとき、キリストと共に十字架につけられ死んだのです。にもかかわらず、まだ生きているかのような自分を見いださせられるとき悲しくなります。
 もっと主を信じる信仰に生き抜きたいと思わさせられています。イエスは「すずめは二羽一アサリオンで売られているではないか。それにもかかわらず、その一羽も、あなた方の父の許しがなければ、地に落ちることはない」(マタイ10:29)と言われました。私たちは神さまのしっかりとしたみ手の中に生かされています。パウロがガラテヤの信徒たちに「あの時のあなた方の喜びは、今どこに行ったのでしょう」(ガラテヤ4:15)と言った言葉を思い出しています。キリストを知らなかったときならいざ知らず、「今は神を知っている。いや、むしろ神から知られている」(ガラテヤ4:8)私たちなのです。にもかかわらずの不信仰のざまは、いったい如何したことだというのでしょうか。私たちはもっとキリストによって贖いとられた子であることを、自信を持って生きていいのです。
 イエスはゲッセマネで「アバ、父よ」(マルコ14:36)と、父なる神に呼びかけられて祈られました。パウロも「わたしたちは『アバ、父よ』と叫んでいます」(ロマ8:15)と記しました。また「あなた方が神の子であることは、神がわたしたちの心に、『アバ、父よ』と叫ぶおん子の霊を送ってくださったことによって明らかです。」(ガラテヤ4:6)と書きました。私たちの神は、天にある遠い存在のお方ではなく、すぐ側においでになる「おとっつあん」とも言うべき存在のお方なのです。
 私はまだ神さまとは、その意味では他人行儀な関わり方でしかない、懐に飛び込んではいない自分を見ることしばしばです。それでは神さまからのお恵みをいただくには遠すぎます。そのことから言えば、弟子ヨハネはイエスに特に愛されていたと言うと誤解を生みますが、私は、ヨハネがイエスを愛する様は大きかったことを思わされています。ヨハネ福音書を通して、神の愛の深さを教えていただく数々の言葉を聞くことです。私は、そのイエスに贖い救われたことをしっかり確認させていただくとき、キリストにあって生きる自分を発見させていただくのです。

 



2018/2/04