日野神明キリスト教会

平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。                  (箴言 17:1

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立川バプテスト教会日野神明伝道所

 こんなお話を読みました。トルストイが散歩に出たとき、一人の物乞いが来て施しを求めました。彼はポケットを探しましたが、あいにくお金を持っていないことに気づきました。そこでその物乞いに向かって、「兄弟、気の毒だが持ち合わせがなかった」というと、物乞いはそれを聞いて、「なに、よろしゅうございます」と言いながら、ニコニコと去って行くのを、ほかの物乞いが見て、「いくらもらって、そんなに喜んでいるのか」と尋ねると、「お金はくれなかったけれども、俺のことを兄弟と呼んでくれたからね」と言いました。
 このお話から、何を聞きとられましたか。とても今日の時代で目にすることができる光景ではありません。けれども感じ取られたものがあるはずです。私は、今日の人々のものの考え方に、とても不満を覚えています。自分を大切にすることが出来ないでいるばかりか、他人を責めるだけで、何かよいものを生み出そうとする行動を見ることができないことです。それは全く、最初の人が楽園を追放されたときに起きたこととそっくりです。
 箴言が「平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは」という言葉を聞くとき、暖かい交わりの様々な光景が頭の中をよぎります。これは私たちみんなが求めているものではないかと思っていますが、現実にはかなわないでいます。そうであるなら、どうしてかなわないのかを考えるのです。この聖句と同じような状況を語る15:17には「肥えた牛を食べで憎しみ合うよりは 青菜の食事で愛し合う方がよい。」という言葉があります。そこから聞こえてくるのは、富ではなく愛こそが、人間にとって最も大切なものだと言うことを教えられるのでした。確かに豊かであることで、生活を楽しく過ごすことができるかも知れません。けれどもそれは、真の満足感と神への従順に、匹敵するものではありません。人々は富を求めて少しでも楽な生活をと望み、他人を押しのけてでもそれを得ようと必死です。それでどれほどの多くの争いが起こり、思わぬ不幸が蔓延しているかご存じないはずはありません。
 そこで一歩とどまって周りを見ることができるなら、違った世界が拡がってきます。私はそこでイエスの一言を思い出させていただくのでした。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と言われました。お互いがしっかり手を結びあうときに、互いの様々な違い乗り越えられてゆくのではありませんか。それをしっかり伝えて行く務めを私たちは担っているのではありませんか。

 



2018/1/28