日野神明キリスト教会

あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。いつもあなたがたと共にいるのである。           (マタイ28:20

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立川バプテスト教会日野神明伝道所

 私たちは前進するために、歩んできた道をしっかり踏みしめて行きます。この一年私たちは、様々な出来事をとおして、神さまのご栄光を拝させていただいてきました。良きことについても、心にそぐわなかったことについても、私たちはその一切を喜んで受け止めて、主に感謝をさせていただきます。
 パウロは「兄弟たちよ、わたしはすでに捕らえたとは思っていない。ただこの一事を努めている」(フィリピ3:13) とフィリピの人たちに書きました。パウロがどのような人物であるか、当時の人とたちはもちろんのこと、私たちも承知しています。その彼が、まだ、し残したことがあると言うのです。神さまの計り知れないあわれみの中に生きてきた、祝福の人である彼が、このように言って、何を私たちに伝えたいと願っているのでしょうか。       
 キリストに出会うまでの罪に満ちた日々を、キリストに救われてから、キリストのために負ってきた様々な苦労を考えても、彼の人生は喜びと感謝に満ちあふれたものでした。彼はその日々を「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者となっているとか言うのではなく、ただ捕らえようとして追い求めているのである。」(フィリピ3:12) と言うのです。神への感謝を述べながらまだまだ、しっかり捕らえなければならないものがあるのです。    
 歩んできたこの一年の様々な出来事を、しっかり踏まえて先を見つめて私たちは歩んで行くのです。すべてを感謝して受け止めて、さらに私たちは先を見つめさせていただく時、そこに出てくる「一事」が大事になりませんか。それは何ですか。 
 
イエスは「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。いつもあなたがたと共にいるからである」(マタイ28:20)と言われ、箴言は「預言がなければ民はわがままにふるまう。しかし律法を守る者はさいわいである」(箴言29:18)と言いました。私たちが歩むべき道は明らかにされているのではありませんか。み言葉に忠実に生きることです。今日の世界での混乱の原因は、ここにあることをみんな承知です。私には、生かされているこの世界の歩みとかけ離れた人生は、考えの中にはありません。と同時に、そこに足を置いて見つめると言うこともいたしません。私はいつもその軸足を、み言葉に置かせていただいています。WWJDとの言葉を忘れていただいては困ります。「イエスならどうされる」です。「共にいる」との主の約束があります。もっと神さまへの信頼篤い私たちの歩みへと導かれることが、今日私たちに求められているのです。

 



2017/12/31