日野神明キリスト教会

わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。                             (エゼキエル37:27

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立川バプテスト教会日野神明伝道所

 

 神さまの慈しみの深さを、私たちはしっかりと承知していますが、私たちがしっかりそれを、受け止めているか、と問われているのではありませんか。
 神さまがイスラエルの民の出エジプトに際して、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって、彼らを守り導いて下さったことは、しっかりと心に留めさせられたことでした。さらに幕屋建設を通して、神さまのご臨在をしっかりと確認してきました。その彼らが、どうして神から離れ、滅びなければならなかったのか。本当に不思議と言うほかありません。私たちは、その理由を知っています。一言で言えば、それは罪を犯したためです。神さまは限りない慈しみをもって私たちを創造され、愛を注いでくださいました。にもかかわらず人間私たちは、自分ですべてをまかなえると自負して、神さまとの約束を反故にしたのです。その結果、神さまからの慈しみの道は断たれ、神ならざる神に頼ることによって滅びへの道を走ったのです。
 神さまはそれを自業自得とは受け取られませんでした。罪の中にある私たちに、それでも神さまの愛は注ぎ続けられたのです。あなたはそれをどう受け止められますか。それこそ私たちが、しっかりと聞かなければならないことです。
 バビロンでの囚人として故郷から遠く離れた地で、イスラエルの民は本当にみじめで悲惨でした。その民にエゼキエルは神さまからのすばらしい慰めを語ります。神さまから離れた者には霊的いのちはない。みな枯れた骨にすぎない。エゼキエルがそこで見たものは、その枯れた骨にいのちを与えられる神の御霊の働きでした。枯れた骨が生き返ったとき、それが何になったかを思い出して下さい(エゼキエル37:1-14)
 神さまはここでエゼキエルに対して、希望の綱も絶えてしまったように見えたイスラエルの民にも、新しい望みがあることを語られました。私たちはここで罪に死んでいるすべての人に、新しいいのちが与えられる光景を見させていただくのです。そしてエゼキエルは国が再び統一され、自分たちの国土が回復される幻を示されました。それを実現される約束された王とは、イエスのことです。エゼキエルのメッセージを聞いた民は、それが実現するのを見ることは出来ませんでした。今日、私たちは、平和の君であられるイエスが、エゼキエルのメッセージにおける大牧者であることを知っています。



2017/11/05