日野神明キリスト教会

キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。            (コロサイ 3:16

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立川バプテスト教会日野神明伝道所

 

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(テサロニケ第一5:16-18)とのみ言葉は、私たちの心にしっかり焼き付いている言葉です。そのようにして私たちは神さまをほめたたえたいと願っています。そのために、私たちはもっとイエス様のことを知りたいと願って、み言葉を学ばさせていただいています。
 第二次大戦後、戦火で焼かれた町のカトリック教会の再建が始まり、焼け跡を片付けていたとき、両方の手首をなくしたイエス像が出てきました。やがて新会堂が完成し、新しいイエス像をたてようとの話が持ち上がりました。だれかが両手首がないイエス像が保管されていたのを思い出して持ってきました。人々はこのいたわしいイエス像を見つめていましたが、結局、そのまま使うことにしました。そして台座にこう刻みました。「イエスは手を持ちたまわない。けれども、イエスは私たちの手を持ちたもう」と。
 私たちはイエス様の何を学ぶのでしょうか。イエス様はどのように生きておいでになったかを、しっかり聞きとることは大事なことです。何と言っても忘れてはならないのは、あなたがたに新しい戒めを与えると言って教えられた言葉です。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ14:34)とイエスは教えられました。それはイエスが、その生き様のすべてを懸けて私たちに教えてこられたことです。私たちもまた、そのことは十分すぎるほど理解しています。けれども実際は異なっているのではありませんか。これは努めなければ適わないことなのです。エルサレム教会とパウロが伝道して出来上がったアンテオケ教会など異邦人教会との間で問題が起こりました。エルサレム教会は長老バルナバを調査のために送りました。そこにはすばらしい神さまの息吹にあふれた教会の姿がありました。バルナバはみ言葉が生きているところには、神さまの働きは平等であることを知り、報告をしました。「キリストのみ言葉が豊かに宿る」時、私たちは決して自分で行動はしません。み言葉に生きることに努めます。自分の思いとは違っていてもみ言葉第一に生きます。だから、そこの誤りがあってはなりませんから、本当にいのちをかけて祈り、私たちはみ言葉を聞くのではありませんか。



2017/10/29