日野神明キリスト教会

自分を、適格な者、すなわち恥じるところのない働き人、真理の言葉をまっすぐに語る者として神のささげるよう努めなさい。  (テモテ第二 2:15

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立川バプテスト教会日野神明伝道所

 パウロは、愛する弟子テモテが、しっかりと主の働き人として立つことが出来るように助言をしました。しかも正しい信仰に立つこと、「キリスト・イエスにおける信仰と愛において、わたしから聞いた健全な言葉を模範としなさい」(テモテ第二1:15)と勧めました。そこにはパウロ自らの、主イエスに対する信仰の確信がにじみ出た言葉として聞くのです。弟子を教える者として、自分の信仰に誇りを持ち、伝えることは大事なことです。パウロは、エルサレム教会の弟子たちと違って、生身のイエスとお会いしたことはありません。けれどもダマスコ途上での復活の主にお会いした経験は、エルサレム教会の弟子たちに勝るとも劣らない、イエスとの出会いでした。そこでいただいた信仰の確信は、パウロの力でした。
若いと言うことで遠慮がちだったテモテに、「神がわたしたちに与えてくださったのは、臆する霊ではなく、力と愛と思慮の霊です」(テモテ第二1:7)と言いました。そこで私は、ヨブに意見を言ったエリフの言葉を思い出しました。「日数がものを言い/年数が知恵を授けると思っていた。しかし、人の中には霊があり/悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ。日を重ねれば賢くなるというのではなく/老人になればふさわしい分別ができるのでもない。」(ヨブ32:7-9)と。そこから信仰者としての最も大切なことを教えていただきました。聖霊こそがすべてなのです。私たちは自分には神さまから与えられた知恵がある。問題にぶつかっても、わたしに臆するものは何もない、と公言してはばからない人の中にも、挫折して悲鳴を上げる人がいます。どこが間違っていたかその人には判っていません。そこに問題があり、それがヨブの問題でした。
ウェブ・ペプロは「神があなたに授けてくださる能力と特権との上に立ちなさい。この世の知恵の上に立って、“私はそれはできません″といってはならない」と言いました。私たちには、神さまのみ言葉を聞いても、そこで告げられる神さまの御心を、しっかり受け止めることが出来ないでいるときがあるのです。そこではまだ、自分の知恵に立っているが自分そこにいるのです。「適格な者」としての私はそこにいないと言うことです。私たちはすべてを神さまにおささげします。すべては神さまの御心の中におかれている「私」を忘れてはなりません。



2017/10/22