日野神明キリスト教会

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。  (マタイ20:29)

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立川バプテスト教会日野神明伝道所

 私たちは、この世界は神さまの御心によってなっていることを知っています。しかしその御心をしっかり受け止めているか、と言われたら危なっかしいのではありませんか。
 今私たちの国は、大切な選択を迫られています。これはこの地上の世界に生きている以上、私たちはその責任を果たさなければならないものです。私の「国籍は天にある」ので、関係ないと言ってはなりません。この生かされている世界を主のものとするために、私たちは働くのでしょう。しかしこの世での働きには多くの誘惑があります。だからこそ私たちは、しっかりとみ言葉に立つことなしには、その道を正しく導き歩むことは出来ません。神さまはモーセを通して、大切な掟を与えて下さいました。私たちがその掟に、どこまで忠実であるかは、重要ですがそれ以上に私は、真実心から、神さまの言葉としてそれを受け入れているかが問題だと考えています。
 ヨハネは「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ1:1)と告げます。この言が主イエス・キリストを指していること、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハネ1:3)と言うように、すべては神さまに帰することです。そこで私がいつも心に問われることがあります。その神の掟を、私の思いで理解して行動をしてはいないかと言うことなのです。
 神さまが与えられた言葉は、真実そのままです。「あなたの隣人を愛しなさい」と教えられました。その隣人に対して、私の中にある様々な思いが交錯するとき、どう行動するのでしょうか。心穏やかではありません。それでも私たちが行動する方向は一つなのです。そこには私たちの思いが入る余地はない、あってはなりません。イエスは「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなた方がわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ1:32,33)と言われました。神さまファーストを貫かねばならないのです。そのようにして私たちは生かされているのです。問われる課題を前にしても、しっかりみ言葉に立つだけです。神さまに愛されている私を忘れないで下さい。



2017/10/15