日野神明キリスト教会
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だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。                    (ペトロの手紙一 5:6)


立川バプテスト教会日野神明伝道所

 

 

 

 ペトロが、教会の長老としてキリスト者の生活態度について、助言をする中で彼は、「ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい」(5:3)と言いました。私はいつもイエスがどのように生きてこられたかを、思い出させていただいています。イエスは「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(マタイ20:28)と言われました。十字架の死に至るまで従順であられたイエスの生き様は、何をおいても私たちが習うべきものです。ペトロは弟子として、イエスを間近に感じてきた人物です。
 私は、ペトロがこれらの助言を、「長老たちに勧めます」と書きましたが、長老だけではない、ペトロが言う「キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者」であると信じて生きている私たちへの助言として、私は聞かせていただこうと思っているのです。私たちはイエスの教えを、どのように受け止めてきたのでしょうか。すばらしい教えだと、聞き流して来ませんでしたか。私はいつもそのことが心にかかるのです。ペトロは「神の羊の群れを牧しなさい。強いられてでなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい」(5:2)というのです。しっかり主イエスに倣った生活を営みたいと願っています。
 かつて高慢な青年が、あの最大の教父であるアウグスチヌスを訪れて、救いの道を尋ねたとき、教父は「それは謙遜である」と答えました。痛いところをつかれて気落ちした青年は、それでもなお尋ねました。「その次に必要なことは何でしょうか」「それも謙遜である」と。青年は顔を曇らせながらなおも質問しました。「その次は何でしょうか」「若者よ、それもまた謙遜である」と。
 このお話を聞いて納得したと言われると困るんです。救いの道を尋ねられて教父アウグスチヌスは「謙遜」と答えました。そのことこそ私たちがしっかりと読み取らなければならないことなのです。イエスの言葉に、謙遜はありません。むしろイエスはその生きる姿を通して、私たちにそのことを語ってくださったと読んでいます。私たちはイエスに倣って、ひたすら仕える者に徹するのです。「神の力強い御手の下で」とペトロは言います。十字架の死に至るまで従順であられたイエスに倣って生きるのです。そのことを通して神さまは、私をしっかり「かの時に高めてくださる」との希望に、私たちは生きるのです。



2017/9/17