主をおのが神とする国はさいわいである。主がその嗣業として選ばれた民はさいわいである。
(
詩篇
33:12
・口語訳
)
立川バプテスト教会日野神明伝道所
私はいつも主に選ばれた、主の民であることをしっかり心に留めさせていただいています。それを誇りとしていますが、その事が自らの優越だと言うことではない、といつも戒められています。イスラエルの民は、その選びを民族の誇りとしてきましたが、そのことによって彼らは、他の民族を、神さまの救いから差別してきました。それは神さまの思いではありませんでした。
神さまはこの世界をこよなく愛しておられます。そのひとつ一つを心に留めておいでです。造られたすべてのもの、この私たちを神さまは、しっかり見つめておいでです。「主は天から見渡し/人の子らをひとりひとり御覧になり、御座を置かれた所から/地に住むすべての人に目を留められる」
(
詩篇
33:13-14)
といわれます。その私たちはどのようにそのことを生きているのでしょうか。
私はいつも「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。」
(
一ヨハネ
4:20
)とのヨハネの言葉を思い出しています。み言葉に生きるということは、こうゆうことだと思っています。私たちはイエスが私たちに語り、生きておいでになったことを知っています。「なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなた方の初めから聞いている教えだからです」
(
一ヨハネ
3:11)
といわれます。私たちはこのために生かされているのです。私たちはそのように選ばれた民だということではありませんか。
宗教改革者のルターは、「もし人が、私の心の戸をたたいて『ここにいる者はだれだ』と尋ねたならば、私は答えるでしょう。『ここにいる者はルターではない。彼は久しい以前に死んだ。今ここに住みたもう者はイエス・キリストである』と。」と言いました。そのように私たちを神さまに捕えられたのです。
私は聖別されたのだと思っています。それは確かに神のものとされたと言うことでしょうが、別世界に移されたとは思っていません。私は新しい使命を与えられたのだと思っています。ますますキリスト・イエスに似るものとなることです。それは「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」
(
一ヨハネ
3:16)
と言うことです。
2017/8/6