日野神明キリスト教会

 なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。     (二コリント 5:10

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立川バプテスト教会日野神明伝道所

 人は皆、その生き様について、必ず問われるときが来ます。それが造られたものの道だと私は心得ています。それにしても本能のままに生きている人が何と多いことでしょうか。そこには、神さまが天地万物の創造をなされた思いなど、一つも心にかけられてはいません。それでも神さまは、造られた人間を、造って「よかった」といわれるのでした。とうてい神さまの御心を理解することなど私たちにはできません。それでも私たちは、その神さまを信じて従いゆくのです。
 
私は、今日の世界の、目を覆いたくなるような動向の中にあって、本当に神さまは私たちを愛しておいでになるのか思うことです。本当に人間は思いのままに行動をしています。それでも、人間は確かに理性を持って行動しているのだと人は言われますが、それは大きな誤りです。私たちは被造物以外の何ものでもありません。その原点の認識の違いは大変大きいです。私たちは万物の主なる神さまを信じて生きる者です。
 パウロも苦闘しながら生きてきました。しかしその中にあっても、彼は失望することはありませんでした。「わたしたちは落胆しません」と言います。私たちは、ほかの人たちが、私たちがキリストを知ることによって得た、大きな喜びにあずかろうとしないのが不思議でなりません。しかしそれは、悪魔が人々の心を閉ざしているからです。このように隠されている福音の光を、見ることが出来るようになるためには、神さまの特別な御業が必要です。光を存在させられた神さまは、私たちの心の暗闇を照らし出したくださいました。
 私たちが救われたのは恵みにより信仰によるのです。しかし、決してそこで忘れてはならないことがあります。それはしっかりと、そのご愛の中で、私たちはそれに応えて生きると言うことです。私たちは「主の日」を信じて、心の備えをして過ごしているのでしょう。その日に何が起こるかを私たちは知っています。イエスは「すべての国の民がその前に集められると、羊飼いは羊と山羊を分けるように」(マタイ25:31-)と話されました。私たちがいかに日々を過ごして来たかを私たちは見られるのです。ただ気張ることなく、救われた喜びをのびのびと生きるだけです。



2017/6/18