ヨハネはみ言葉にとどまり、キリストにとどまるべきであると勧めてきました。彼は知識のみを重視する偽りの教えと、行動を伴う真理を主張するほんとうのキリスト教とを対比して語ります。そこには大きな神の愛を受けた私たちがどのように応えて生きているかとの問いかけがあるのではと聞くのです。
 この世の人たちは、父なる神を全然知りません。山上の説教でイエスは「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5:16)と言われました。私はこのイエスの言葉をいつも心に留めています。いかに私たち自身の生活を通してイエスを証ししているだろうかと思わされています。「御父がどれほどわたしたちを愛して下さるか、考えなさい」(ヨハネ第一3:1)と言われます。私たちがクリスチャンとして生きるのは、、神が私たちを愛し、子どもと呼んで下さっている事実によるのです。だから私たちは神に似るものとして生きるのです。
 東京にある聖路加病院に、スイスからきた宣教師で看護婦をしていたヌノーという人がおられました。彼女は宣教師でしたが表立って信仰の話を患者にはしませんでした。「ことばで福音を説明するより、仕事で福音をあかしするほうがたやすいからです」と言いました。
 信仰生活というのは、ますますイエスに似る者へと変えられていくプロセズスです。それは「主の日」にキリストとお会いする日まで続くのです。私たちは主を信じたとき、死よりいのちに移されました。生かされている私たちは、しっかりイエスに倣って生きます。それがヨハネ第一3の16です。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」とのみ言葉をしっかり心に留め置かねばなりません。愛と言うのは実際に愛することです。行いです。真実の裏付けを持った行いなのです。

2017/4/23

日野神明キリスト教会
本文へジャンプ

立川バプテスト教会日野神明伝道所

神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。                                  (ヨハネ第一 3:10