日野神明キリスト教会
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立川バプテスト教会日野神明伝道所

信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。 (口語訳・ヘブル12:2

 イエスはご自分がお受けになる苦難を前に、ゲッセマネの園で祈られました。「この苦き杯が取り除かれるのであれば」と祈られましたが、それに続けて「あなたのみこころのままを、なさってください」と祈られて、十字架への道に従われました。その時イエスがどれほどの苦悩の中にあったかを私たちは知っています。そのイエスの思いを、ヘブル書記者は、「彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍」ばれたと言うのです。
 イエスの信仰は、神のゆえに受けるはずかしめ、しかも十字架の恥と苦難は切り離すことが出来ないこの恥を、イエスは神のみ旨に従う者が受けるべきものとして忍ばれました。このイエスの思いを「自分の前に置かれている喜びのゆえに」と言いました。実は新共同訳聖書では「ご自分の前にある喜びを捨てて」と訳されていて、その意味の違いに戸惑っていますが、多くの日本語訳の聖書が採用している「自分の前におかれている喜びのゆえに」との訳に、私は十字架への道を歩み行かれるイエスを見させていただいています。ヘブル書記者は「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」と言います.イエスは私たちの信仰生活の軌道を定められたお方です.そしてそれは苦難を経て全うされる道でした。
 イエスはご自分が、この信仰の道を全うされることによって、ご自分の民が神に近づくことが出来るようになり、この世界に神のご計画が完成されることでした。イエスはその喜びを鮮やかに見ておられたゆえに、恐ろしい苦難と恥を忍ばれたのです。実は、イエスはペテロのメシヤ告白を受けられた後で、ご自分の死と復活の予告をされました(マタイ16:13-28)。私はそこに、この道を心得ておいでになったイエスを知ると共に、人の子としての苦悩に生き抜いておいでになったイエスを知るのです。そして十字架の恥以上に、その道を歩み抜いて、栄光をのぞみ見ておられたイエス。それこそが私たちがしっかりと倣って歩むべき道にほかなりません。私たちもペテロの「わたしたちを救いうる名はイエスを別にして、天下のだれにも与えられていない」(使徒4:12)を告白する者です。