「あなたはクリスチャンでしょう!」と言われたことはありませんか。その質問に頷かれる方も多いのではと思っています。そのような言葉をかけられるのはほとんどが、この私の行動に対しての問いかけです、と言うより責めと言った方がいいのかも知れません。それだけ私たちはみんなに、しっかり見られ、期待されていると言うことだと私は思っています。
 これは、私にとっては重荷だと考えたことがないわけではないでしょう。そんな、型にはめられるのはいやだ、と考えておられるなら、それは違うと言わねばないません。私たちはイエスをキリスト、救い主と信じて受け入れ告白した時、私たちは新生したのです。新しい人となったのです。私たちは聖別された人間なのです。他の人とは違うのです。外見はこれまでと寸分違わない私ですが、パウロが「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と言ったように、これまでの私とは確実に違うのです。これは自動的に変化をするのではなく、告白によって、自覚的に変わらねばならないのです。
 イエスは「あなた方の光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなた方の立派な行いを見て、あなた方の天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5:16)と言われました。最近のはやりの言葉で俗っぽく言えば、クリスチャンは広告塔です。人々は、私たちの言動を見て、万物の主であるお方を知り、そのご栄光を拝するというのです。「人びとは聖書の福音書を見る前に、あなたという福音書を見る」と言う言葉があります。どのように言おうとも、私たちを通して主なる神を、人々は知ることになるのです。こんな光栄なことはありません。しっかりと「神の言葉(掟)を守るなら、まことにその人の内には、神の愛が実現して」いるのです。喜んで神の掟に生きようではありませんか。

日野神明キリスト教会
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立川バプテスト教会日野神明伝道所

わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。        (ヨハネ一 2:3-6