日野神明キリスト教会
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立川バプテスト教会日野神明伝道所

人の心は何ものよりも欺きやすく、芯まで腐っている。 それがどんなに悪質なものであるかは、だれにもわからない。 (エレミヤ17:9−リビングバイブル)

 こんな話があります。人の容姿ではなく、心の状態を写す鏡を発明した人がいました。スマートな装いをした若い紳士が入ってきて、その鏡の前に立つと、汚れた心がそのまま写ったのを見て、彼はびっくりして走り去って行きました。盛装をこらした美しい婦人が、その鏡の前に立つと、胸の中のよごれがそのまま現れるので、その婦人もそこから急いで逃げて行きました。だれ一人としてその鏡の前に立てる者はいませんでしたが、ただ一人だけ例外がありました。その人にかぎって胸にも、わらわたにも一点の汚れも見いだすことは出来ませんでした。そこでこの人はどんな人であろうかと、皆が寄って調べると、その人は重度の精神遅滞者(白痴)であったと言うのです。
 人の心を知り尽くす神が、「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようが」と言われるように、人の胸の中は、いや私たちの心の中は、罪の汚れで満ちあふれています。パウロは「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。・・もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。・・わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ロマ7:7-25)と言いました。
 私たちも、昔の詩人が「知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。あなたの僕を驕りから引き離し/支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ/わたしは完全になるでしょう。」(詩篇19:13-14)と訴えたことを祈るのみです。そして私たちはキリスト・イエスのみ言葉に従って生きるのです。そこにしか私たちの救いはありません。パウロは悩みながら「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」と言いました。イエスが「幼子のようにならなければ」と言われた言葉を思い出させられています。


2017/2/19